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心ある者は一人では生きられないのだ

先日、知り合いの方と一緒にフランケンシュタインが題材になった舞台を観てきた。

フランケンシュタインはホラー映画の怪物のイメージしかなかったけど、実はすごく深いストーリーだった。

 

人造人間のフランケンシュタインは、現代のクローン人間や科学の問題とかリンクしたところがあるんだなぁと、非常に興味深く鑑賞した。

原作は200年前、メアリーシェリーというイギリスの女性小説家が19歳のときに描いた作品。

(この舞台を観た)

 

フランケンシュタインは人間のエゴで作られた醜い姿の人造人間だ。醜いために誰にも受け入れられずにいる。

ただの怪物ならまだ良かったものの、人造人間なのでヒトの心を持っていて孤独と戦っている。

 

フランケンシュタイン”とは怪物の名前ではなく、怪物を生み出した科学者の名前をフランケンシュタインという。(今では怪物がフランケンシュタインとされてるけど)

ただのSFやホラー作品ではなく、人間の心理をついた言葉が胸に刺さる詩的な小説で、

200年たった今でも読み続けられているのがわかる。

 

優秀な科学者が人造人間を生み出してしまい、あまりにも恐ろしい怪物ができてしまったのでその怪物を見捨てるが、怪物は人間以上の身体能力で生き延びていく。知恵もち自分の醜さを知り、出会う人々からはひどい目にあわされ、孤独と戦いながらこの世に生み出し見捨てた創造主(フランケンシュタイン)を恨みはじめる。

 

だが人間達を観察して愛情や慈しみや優しさという愛おしい感情をも覚えてしまった怪物は思う。せめて孤独を分かち合える伴侶が欲しい、自分の伴侶を作れるのは創造主であるフランケンシュタインしかいない。

 

みんな惨めなやつを嫌うのだ。だとすればどんな生き物よりも醜いこの俺が、嫌われないわけがないだろう?だがお前が、創造主たるお前が、被造物であるこの俺を嫌い、拒否するのか。どちらか一方が滅びない限り、堅く紐で結ばれている我ら。その俺をお前をは殺そうというのか。なぜそのように生命をもてあそぶのだ?

俺に対する義務をはたせ。

 

命は苦しみの積み重ねでしかないが、それでも俺には愛おしいのだ。だから俺は守るのだ。

あぁ、フランケンシュタイン、他の人間には優しいのになぜ俺だけ踏みつけるのだ。この身体はお前の正義、いやお前の慈愛を受けてしかるべきなのだ。忘れるな、俺はお前が作ったのだ。俺はアダムなのだ。だがこのままではまるで何も悪いことはをしていないのに、喜びを奪われだ堕天使ではないか。あちこちに幸福が見えるのに、俺だけそこからのけ者にされている。俺だって優しく善良だったのに、惨めな境遇のために悪魔となったのだ。どうか俺を幸せししてくれ。そうすればもう一度善良になろう。

 

一緒に暮らしてこちらの心をわかる女を作って欲しい。これはお前にしかできないことだ。

このことは俺の権利として要求する。お前は拒否できないはずだ。

 

だが、創造主フランケンシュタインはなかなか怪物の伴侶を作ろうとしない。

 

呪われし創造主よ、お前すらも嫌悪に目を背けるおうなひどい怪物をなぜ作り上げた?神は人間を哀れみ人間を自分の美しい姿に似せて人間を想像した。だがこの身は汚い。サタンにさえ同胞の悪魔がいて、時に崇め力づけてくれるのに俺は孤独で毛嫌いされるばかりだ。

 

自分が望んているのはちょっとした食べ物や安らぎではなく、もっと大きな宝物、親切と同情心であることはもちろんわかっている。

 

心の通じ合う伴侶と一緒に暮らせたのなら人間に危害を加えない。それどころか涙を受けべてひたすら感謝するだろう。

 

それでも伴侶を作らぬ創造主に怪物は言う。

人はみな胸に妻を抱き、獣にも連れがいるというのに俺だけ一人なのか?俺だって愛情を持っていたのに。

 

心ある者は一人では生きていけないのだ。

 

恐ろしい怪物をもう一体作ることはどうしてもできず、フランケンシュタインは断固として断る姿勢を貫く。そして怪物の復讐はじまった。フランケンシュタインの愛する者たちを次々と殺していった。

 

こんな惨めで孤独な思いをさせるならどうしてこの世に生み出した?

責任も果たせぬのに。呪われし創造主よ。

 

 

”責任”を果たさず自分の都合が悪くなったら逃げ出す輩はどの世にも存在する。

この物語が描かれた200年前だけど、今の世の方が責任を放棄する輩は多いのかもしれない。

だけど責任を果たさず逃げたものは、必ず自分にかえってくる。さらに残酷な形で大きくなって。

その時はうまくやったと思ってても、しっかりと後から違う形となってでもかえってくる。

 

フランケンシュタインの最後は自ら命を絶ってしまうという結末なのだが、この物語を読んで頭をよぎった作品が他にも2つあった。

 

シザーハンズ(1990年、ティム・バートン監督の映画)

・R62号の発明(1953年、安部公房の短編小説)

 

シザーハンズ(1990年、ティム・バートン監督の映画)はジョニー・デップ主演の大ヒット映画。両手がハサミの人造人間。手を作ってもらったがつけてもらう直前に創造主が発作で死んでしまう。手がハサミのため危険人物扱いをされ、愛する者も抱くことができないという物語。この映画を見た時はまだ幼かったけど、切なさを感じたのを覚えている。

 

もう一つは、R62号の発明(1953年、安部公房の短編小説)。

失業して自殺しようとした機械技師は死体を売って欲しいと頼まれ脳の手術をされR62号として生まれ変わる。R62号はかつて契約を切られ自殺の原因となった会社のもとに戻りロボットとして仕事をしていく。R62号が開発した新式工作機械の試運転が行なわれることになりパーティーに関係者が集まった。

機械は暴走し、かつて自分を裏切った会社の社長を惨殺する。

 

科学と感情は別物だとされてきた。

だが「フランケンシュタイン」「シザーハンズ」「R62号の発明」ともに作り出されたものが感情をもっている。

 

機械は心を持たないとされているけど、機械をつくる人間はゆういつ動物の中で心を持つものだ。

心を持ったものは他人を愛し、慈しみ慈悲の心を持つことができる。そのため嫉妬や怒り、憎しみがあり争いが起きる。

 

人間だけがゆういつ食物連鎖以外で、殺し合う生き物だ。

 

 

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砂上の楼閣

それは砂上の楼閣だ、騙されるな。

 

見かけは立派かもしれないけど、軸がないから長く続かない。

すぐに消えてしまうものだよ。

 そんなものにハマってはいけない。

だから、そんなこと信じちゃいけないんだよ。

 

周りはみんな止めろと言う。

悪いことは言わないから、君のためだから止めろと言う。

 

「覚悟があるなら進めばいい」と進み方を教えてくれたのは、過去に私と同じように砂上の楼閣を見た人だけだった。

 

なので私は相談するのをやめた。

自分を保つため、周りに相談するのをやめた。

 

砂上の楼閣が現れて、幻だとわかっていたけどその中に本当の何かがあるかもしれないと、信じて見たくなったのだ。

今度こそ、本物かもしれないのだ。

 

痛みを感じてでしか、自分の存在意義を確認できない人というのがいる、

この世の中には。

それはすごく辛いことなのだけど、そういう人たちは、

自分の価値を認める方法をそれしか知らないのだ。

 

何かに反発する、こころが。

変わろうとしている、なにかが。

 

変わるのが、こわいのだ。

 

確信の言葉が聞けないと、不安は募るばかりなのだ。

変わらずにいる意味を探し続けて、

そんな自分が嫌になるのだ。

 

どんなに自分は違うと言っても、同じにされたくないと思っても、

違わないのだ。

 

どうして自分たちの恋愛がわかるものか。

快楽と猜疑心と、肉体のぬくもりと苦痛のまざりあったこの5年間を。

 フランソワーズ・サガンブラームスはお好き)

 

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エロティシズム語録 前書き

フランスの思想家ジュルジュ・バタイユ

彼の発表した「エロティシズム」は、

”人間の精神は、極めて驚くべき禁止命令にさらされている。”

という書き出しからはじまる。

人間というのは本当に、自らに禁止命令ばかり出している。

 

裸とは交流(コミュニカシオン)の状態なのだ。

それは自閉の状態を超えて、存在のありうるべき連続性を追い求めるということなのだ。

 

人が通常の生活態度からエロティックな欲望に移ってゆくとき、そこには死の根源的な魅惑が作用している。

エロティシズムの中で作用しているのは、つねに、確固とした形態の溶解ということなのだ。

 

恋人たちの情念は、肉体の融合を延長させる

 

この情念を体験するものにおいて、この情念が肉体の欲望よりももっと暴力的な意味をもつことがある。

至福の約束がこの情念に伴っているにもかかわらず、この情念がまず初めに混乱と変調を齎すということを私たちは決して忘れてはならない。鼓腹な情念それ自体が大変荒々しい無秩序を惹き起こす。

 

好ましい偶然が、愛するものを自分のものにさせる

 

恋人にとって愛する相手は世界の透明さである。愛するものの中に透けて見えるものは、個人の不連続性によって限界づけられない完全な無際限の存在である。一言でいうと、それは。恋人からすれば解放と映る存在の連続性のことである。

不条理、混合、苦悩を通して、奇跡のような真実が現れるのだ。

 

死におけるまで生を称えること

 

人は自閉への意思を拒むことによって私たちに開かれるエロティシズムの領域の一体性を、その内部において、理解できるようになる。エロティシズムは死へと開かれている。死は人を個体の在続の否定へ開かせる。私たちは、内面の暴力がなかったならはたして、私たちを可能なこといっさいの限界へ導く否定を引き受けることができただろうか。

 

前書きの最後はランボーの詩で終わる。

 

見つけ出すことができたんだ。

何をだい?

永遠さ。

それは、太陽と

一緒になった海なんだ。

 

 

このランボーの詩、つい最近もどこかでみたような...

 

ゴダール気狂いピエロだ。

 

ちなみに、最新リマスター版の気狂いピエロではこのような日本語訳になっている。

 

また見つかった!

何が?

永遠が

太陽とともに去った

海が 

 

 

 

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(写真はヴードゥー教のマスクを被った少年)

1人のヒトに

 

どんなときでも注意が必要だった。なぜなら、ひとは決して1人の男に、全てを言えないものだからだ。

フランソワーズ・サガンブラームスはお好き)

 

1人の人に全てを満たしてもらおうとするから求めすぎてしまう。

 

僕はあなたが幸福だと信じたいし、

あなたも僕を幸福な人間だと思って欲しい。

 

フェアじゃないのかもしれないことを。

 

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愛と崇拝

魂は光子さんのとこい飛んで行てしもて、夫にちょっとも興乗りませなんだ。恋しさが募れば募るほど、なんやかやと話しかける夫がうるそうて、腹立たしいて、ろくさも返事せんと1日ふさぎこんでましたよって、その時からもう夫の方は一ぺん懲らしてやらんならんと考えたらしいのです。

 

「何やのん、あんた!あんた何の権利あってうちが大好きや云う人のこととやかく云うのん?光子さんほど姿と性質のびちっと合うた人、世界中捜したかって又とあらへん。あんな心の清い人、人間やあらへん、観音様と同じこっちゃ。悪口云うたら勿体のうて罰あたるわ!

 

「異性に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗や思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来ると思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気イして、嬉してたまらん」

 

結局二人もぬけの殻にさして、この世の中に何の望みも興味も持たんと、ただ光子さん云う太陽の光だけで生きてるように、それ以外に何の幸福も求めんようにさしたい云うことになるのんで、薬飲むのん厭がったりしたら泣いて怒んなさるのんです。そら、まあ、自分がどのくらい崇拝しられてるか試してみてそれ愉快がるような心理、前から光子さんにあったことはありましたもんの、そない極端に、ヒステリーみたいなこと云い出しなさったのんは、何ぞ別に理由あるのんに違いない飲んで、多分綿貫の感化やないか思いますねん。

 

「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』云う名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」

谷崎潤一郎(卍)

 

両性愛の女と関係を結び、どんどん深みにはまっていく2組の男女の交錯する「卍」

谷崎は「知人の愛」でもわかるように、かなりの女性崇拝者である。

そこには愛や母性といった暖かいものではなく、必ず歪んだものが見え隠れする。

それが谷崎作品の醍醐味であるのだけど。

 

細雪」の雪子なんかもそうだ。

彼女の人間性しかり、雪子の下痢が止まらないという内容で物語が終わるというのも、間違えなく谷崎の雪子という女性への愛情の現れだ。

 

著者が歪んだ表現をしようと、

それが愛情表現だとしっかり読者に伝わるから谷崎作品は面白い。

 

そして谷崎の作品を読んでいると、愛といのはものすごくコワいと感じる。

 

愛だ恋だ云っても、計算できているうちはまだ理性が保てている証拠だ。

愛と計算では、愛の方がはるかに怖いのだ。

 

崇拝までいくと、さらにコワい。

だけど誰かを崇拝している側の心情は、とても充実し幸福感で満たせれていることだろう。

 

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伝えるなら、届くうちに

愛の言葉もタイミングを間違うと届かなくなってしまう。

そんなことを考えさせられる、こじれた2組の夫婦のストーリーをフランスと日本の小説から。

ローランスも僕に対して耐え難い思いを抱き、感情のバランスを完全に崩していたのだ。これほど深い、本物の情熱が、一体どこからローランスにわき起こるのかぼくには分からなかった。 彼女に中にこれほど捨て身の行動をとる激しい人物が棲んでいるとは、想像もつかなかった。

 

彼女が語れば語るほど、ぼくは7年の間、自分が彼女にとって手を差し伸べることすらしない無力な傍観者にすぎなかったと悟り始めた。

ローランスの激しい情念を燃え立たせるのにぼくは何をしたというわけでもなく、ただ軽い気持ちでその情念と隣り合って暮らしてきたにすぎない。

だがその軽い気持ちが罪だったのである。そう、ぼくには罪があったのだ。彼女の心の奥底を何も見ていなかったという罪が。 

フランソワーズ・サガン (愛は束縛)

 

フランスの小説家、フランソワーズ・サガンの中で最も好きな作品「愛は束縛」の後半の一節。

ブルジョワ育ちのローランスと売れないピアニストだったが映画の作曲で人気作曲家となったヴァンサン夫婦の、心がすれ違うお話。

この中で妻ローランスは、夫のヴァンサンを様々な手段を使って縛りつけようとする。

だが結局最後は別れるだけでなく・・・

 

サガンは男女間の微妙な空気や、言葉にするほどではないけど少し重い雰囲気を表現するのがとても上手い作家だと思う。

この小説を読むと、

 

条件が変わっても、変わらないもの

条件が変われば、やっぱり変わるもの

 

というのを考えさせられる。

 

どちらも現実に起こり得ることだし、人生とは常に変化を受け入れていくものだから、一方が良い悪いという問題ではない。

ただ言うなら、今のままではよくないとわかっているのに、現状を変えるのが怖くて見て見ぬ振りをしてしまうのが一番よくないのだ。

見て見ぬ振りを続けた末は、ちょっとした起動修正ではもうどうにもならず、今あるものを壊して強行突破するほか、方法はなくなっている場合が多いのだ。

  

彼女のわめき声は次第に激しくなった。

<馬鹿だと思ったのね、馬鹿だと思ったのね!>

彼女は怒鳴り、半裸で半狂乱で酷悪だった。そんな姿をこれ以上見ないように、僕は廊下に駆け出した。

僕が逃げ出そうとしているものの正体は、もはや欺瞞でも愚かさでに冷酷さでもなかった。そのような抽象的なものではなかった。ぼくが逃げようとしているのは、ぼくを愛しておらず度を過ぎた声で絶叫している狂暴な一人の女に過ぎなかった。

フランソワーズ・サガン (愛は束縛)

 

我慢のリミットをとうに超え、軽薄さと情念が爆発するフランスの小説と比べ、日本の小説はだいぶ勝手が違うようで、

 

セックスレスが原因で不和に陥入り、妻は夫同意で浮気をし別の男に妻を譲る契約をする一組の夫婦を描く、谷崎潤一郎の「蓼食う虫」では、二人とも決定的な別れの言葉は自分から切り出したくないがゆえ、周りの様々な人たちを巻き込んでいく。

 

夫には妻が「女」でなく、妻には夫が「男」ではないと云う関係、もし二人が友達であったら却って仲良くいったかもしれない。

 

すでに夫婦ではなくなっている、という事実だ。

一時の悲しみを耐え忍ぶか永久の苦痛に耐えるか、どっちとも決断がつかずにいる。決断は付いているんだが、それを実行する勇気がないので迷っているんだ。

 

「あたし、自分でもどうしたらいいか分からないで迷っているのよ。あなたが止せと云ってくだされば今のうちに止せるんです。」 

谷崎潤一郎(蓼食う虫)

 

どちからとも決定的な言葉は言わず、相手が終止符をうってくれるのを望んでいる。頭では色々言ってみようとも思うが、いざとなれば肝心な時に言葉が出てこず黙り込む。

どちらとも、自分が悪者にならずに別れたい。

そうすれば、きっとこれから何かあった時には助け合えるような関係では居られるだろう。

そしてそれとおなじくらい思うことは、もうこれ以上夫婦関係を続けることは難しいと確信しているのだ。

 

谷崎は実生活で妻:千代を佐藤春夫に譲った経緯があることからこの作品が生まれた。(ちなみに谷崎、千代、佐藤の3名の連名で、妻を譲りますという声明書を交わしたらしい)

その後、細雪の三女、雪子のモデルとなったと言われる松子と結婚。

谷崎は松子に「もし、あなた様と芸術とが両立しなければ、私は喜んで芸術を捨ててしまいます」というラブレターも残している。

色々な説はあるが、歴史に名を残す文豪というのは、凡人には理解できない愛情のバロメーターを持っているのかもしれない。

 

かなり表現の仕方は違えど両作品に共通して言えるのは、男女が寄り添っていくことの難しさと、よくある日常の不調和が描かれていること。

ボタンの掛け違えは命に関わる問題ではないが気分が良いものではない。長年放っておくのは良くないのだ。

 

発狂するローランスを見てヴァンサンは、

彼女の言葉はぼくに、《愛着を抱いた獲物に没頭するヴィーナス》の姿を想起させた。だが人生は、もっとさりげない感情の集積で進んでゆくものなのだ。ともかく日常生活においては。

フランソワーズ・サガン (愛は束縛)

と感じている。

確かに日常は暖かく穏やかに、心地よく流れていくのが好ましい。

 

愛は束縛の2人を見て思うのは、もしこれほど感情のバランスを崩す前に本音を話し合う事が出来ていたら、おそらく着地は変わっていただろう、ということ。

自分の本心を伝える勇気とタイミングというのは実に重要なのではないか。

タイミングは、遅すぎても早すぎてもダメなのだ。

伝えるなら、届くうちに。

 

人の心は儚く時の流れとともにうつろうからこそ、不変を求め同じ気持で愛してほしいと願う。

その手段はこの世の中で一番根拠がなく不確かな”言葉”というものが使われる。

長い間愛し合う、信じあうという事は、きっと奇跡に近い稀な事ではないか。

 

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支那の体臭

オールド上海の通奏低音

1920年、夜の魔都

 

人気絶頂のさなか自殺した阮玲玉は言った。

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「死ぬのは恐ろしくないけれど、人の言葉は恐ろしい 」

(ロアン・リンユィ  阮玲玉)

  

言葉は簡単に人を殺す。

その時、自分にとって都合の良い言葉を吐き、

いざ自分のもとへ火の粉が飛んでくると一目散に逃げ出すヒトがいるが、実際にはほとんどがそんなヒトだ。

「何があっても守ってやる」と言いながら、逃げ出すのだ。

 

言葉は人を救うが、人の精神を崩壊もする。

 

逃げ出した人間が吐いた軽はずみで無責任な言葉を、

逃げ出すこともできず取り残されて

魂が剥ぎ取られていくのをじっと耐えることしかできない身となった者は絶対に忘れない。

 

 

もしあなたが、そんなの言ったことすら忘れても大丈夫。

その時はあなたの首元に後ろから腕を回しそっとキスをして、

思いっきり噛みちぎってあげる。

何が起こったかわからず、ただ呆然と血を流し横たわるあなたに、

優しく笑いかけてあげる。

そしてもう一度キスをしてあげる。

 

私はやさしいの。

 

だって、あなたのその無責任な言葉が、何度も私を救ったんだもの。

 

だから、私はやさしいの。

 

 

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パイプの小穴、

言うに言われないどっしりとした奥ゆかしい雰囲気の何か。

何ひとつ、豊かな気持ちのそそらないものはない。

 

金ができたり地位ができたりすると、

何処とはなしに誰に進められた問いうことなく、やはり

世間全体からの雰囲気からして、阿片の煙管が惹きつけられてくる。

(後藤朝太郎) 

 

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