伝えるなら、届くうちに
愛の言葉もタイミングを間違うと届かなくなってしまう。
そんなことを考えさせられる、こじれた2組の夫婦のストーリーをフランスと日本の小説から。
ローランスも僕に対して耐え難い思いを抱き、感情のバランスを完全に崩していたのだ。これほど深い、本物の情熱が、一体どこからローランスにわき起こるのかぼくには分からなかった。 彼女に中にこれほど捨て身の行動をとる激しい人物が棲んでいるとは、想像もつかなかった。
彼女が語れば語るほど、ぼくは7年の間、自分が彼女にとって手を差し伸べることすらしない無力な傍観者にすぎなかったと悟り始めた。
ローランスの激しい情念を燃え立たせるのにぼくは何をしたというわけでもなく、ただ軽い気持ちでその情念と隣り合って暮らしてきたにすぎない。
だがその軽い気持ちが罪だったのである。そう、ぼくには罪があったのだ。彼女の心の奥底を何も見ていなかったという罪が。
フランソワーズ・サガン (愛は束縛)
フランスの小説家、フランソワーズ・サガンの中で最も好きな作品「愛は束縛」の後半の一節。
ブルジョワ育ちのローランスと売れないピアニストだったが映画の作曲で人気作曲家となったヴァンサン夫婦の、心がすれ違うお話。
この中で妻ローランスは、夫のヴァンサンを様々な手段を使って縛りつけようとする。
だが結局最後は別れるだけでなく・・・
サガンは男女間の微妙な空気や、言葉にするほどではないけど少し重い雰囲気を表現するのがとても上手い作家だと思う。
この小説を読むと、
条件が変わっても、変わらないもの
条件が変われば、やっぱり変わるもの
というのを考えさせられる。
どちらも現実に起こり得ることだし、人生とは常に変化を受け入れていくものだから、一方が良い悪いという問題ではない。
ただ言うなら、今のままではよくないとわかっているのに、現状を変えるのが怖くて見て見ぬ振りをしてしまうのが一番よくないのだ。
見て見ぬ振りを続けた末は、ちょっとした起動修正ではもうどうにもならず、今あるものを壊して強行突破するほか、方法はなくなっている場合が多いのだ。
彼女のわめき声は次第に激しくなった。
<馬鹿だと思ったのね、馬鹿だと思ったのね!>
彼女は怒鳴り、半裸で半狂乱で酷悪だった。そんな姿をこれ以上見ないように、僕は廊下に駆け出した。
僕が逃げ出そうとしているものの正体は、もはや欺瞞でも愚かさでに冷酷さでもなかった。そのような抽象的なものではなかった。ぼくが逃げようとしているのは、ぼくを愛しておらず度を過ぎた声で絶叫している狂暴な一人の女に過ぎなかった。
フランソワーズ・サガン (愛は束縛)
我慢のリミットをとうに超え、軽薄さと情念が爆発するフランスの小説と比べ、日本の小説はだいぶ勝手が違うようで、
セックスレスが原因で不和に陥入り、妻は夫同意で浮気をし別の男に妻を譲る契約をする一組の夫婦を描く、谷崎潤一郎の「蓼食う虫」では、二人とも決定的な別れの言葉は自分から切り出したくないがゆえ、周りの様々な人たちを巻き込んでいく。
夫には妻が「女」でなく、妻には夫が「男」ではないと云う関係、もし二人が友達であったら却って仲良くいったかもしれない。
すでに夫婦ではなくなっている、という事実だ。
一時の悲しみを耐え忍ぶか永久の苦痛に耐えるか、どっちとも決断がつかずにいる。決断は付いているんだが、それを実行する勇気がないので迷っているんだ。
「あたし、自分でもどうしたらいいか分からないで迷っているのよ。あなたが止せと云ってくだされば今のうちに止せるんです。」
谷崎潤一郎(蓼食う虫)
どちからとも決定的な言葉は言わず、相手が終止符をうってくれるのを望んでいる。頭では色々言ってみようとも思うが、いざとなれば肝心な時に言葉が出てこず黙り込む。
どちらとも、自分が悪者にならずに別れたい。
そうすれば、きっとこれから何かあった時には助け合えるような関係では居られるだろう。
そしてそれとおなじくらい思うことは、もうこれ以上夫婦関係を続けることは難しいと確信しているのだ。
谷崎は実生活で妻:千代を佐藤春夫に譲った経緯があることからこの作品が生まれた。(ちなみに谷崎、千代、佐藤の3名の連名で、妻を譲りますという声明書を交わしたらしい)
その後、細雪の三女、雪子のモデルとなったと言われる松子と結婚。
谷崎は松子に「もし、あなた様と芸術とが両立しなければ、私は喜んで芸術を捨ててしまいます」というラブレターも残している。
色々な説はあるが、歴史に名を残す文豪というのは、凡人には理解できない愛情のバロメーターを持っているのかもしれない。
かなり表現の仕方は違えど両作品に共通して言えるのは、男女が寄り添っていくことの難しさと、よくある日常の不調和が描かれていること。
ボタンの掛け違えは命に関わる問題ではないが気分が良いものではない。長年放っておくのは良くないのだ。
発狂するローランスを見てヴァンサンは、
彼女の言葉はぼくに、《愛着を抱いた獲物に没頭するヴィーナス》の姿を想起させた。だが人生は、もっとさりげない感情の集積で進んでゆくものなのだ。ともかく日常生活においては。
フランソワーズ・サガン (愛は束縛)
と感じている。
確かに日常は暖かく穏やかに、心地よく流れていくのが好ましい。
愛は束縛の2人を見て思うのは、もしこれほど感情のバランスを崩す前に本音を話し合う事が出来ていたら、おそらく着地は変わっていただろう、ということ。
自分の本心を伝える勇気とタイミングというのは実に重要なのではないか。
タイミングは、遅すぎても早すぎてもダメなのだ。
伝えるなら、届くうちに。
人の心は儚く時の流れとともにうつろうからこそ、不変を求め同じ気持で愛してほしいと願う。
その手段はこの世の中で一番根拠がなく不確かな”言葉”というものが使われる。
長い間愛し合う、信じあうという事は、きっと奇跡に近い稀な事ではないか。