愛と崇拝
魂は光子さんのとこい飛んで行てしもて、夫にちょっとも興乗りませなんだ。恋しさが募れば募るほど、なんやかやと話しかける夫がうるそうて、腹立たしいて、ろくさも返事せんと1日ふさぎこんでましたよって、その時からもう夫の方は一ぺん懲らしてやらんならんと考えたらしいのです。
「何やのん、あんた!あんた何の権利あってうちが大好きや云う人のこととやかく云うのん?光子さんほど姿と性質のびちっと合うた人、世界中捜したかって又とあらへん。あんな心の清い人、人間やあらへん、観音様と同じこっちゃ。悪口云うたら勿体のうて罰あたるわ!
「異性に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗や思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来ると思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気イして、嬉してたまらん」
結局二人もぬけの殻にさして、この世の中に何の望みも興味も持たんと、ただ光子さん云う太陽の光だけで生きてるように、それ以外に何の幸福も求めんようにさしたい云うことになるのんで、薬飲むのん厭がったりしたら泣いて怒んなさるのんです。そら、まあ、自分がどのくらい崇拝しられてるか試してみてそれ愉快がるような心理、前から光子さんにあったことはありましたもんの、そない極端に、ヒステリーみたいなこと云い出しなさったのんは、何ぞ別に理由あるのんに違いない飲んで、多分綿貫の感化やないか思いますねん。
「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』云う名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」
谷崎潤一郎(卍)
両性愛の女と関係を結び、どんどん深みにはまっていく2組の男女の交錯する「卍」
谷崎は「知人の愛」でもわかるように、かなりの女性崇拝者である。
そこには愛や母性といった暖かいものではなく、必ず歪んだものが見え隠れする。
それが谷崎作品の醍醐味であるのだけど。
「細雪」の雪子なんかもそうだ。
彼女の人間性しかり、雪子の下痢が止まらないという内容で物語が終わるというのも、間違えなく谷崎の雪子という女性への愛情の現れだ。
著者が歪んだ表現をしようと、
それが愛情表現だとしっかり読者に伝わるから谷崎作品は面白い。
そして谷崎の作品を読んでいると、愛といのはものすごくコワいと感じる。
愛だ恋だ云っても、計算できているうちはまだ理性が保てている証拠だ。
愛と計算では、愛の方がはるかに怖いのだ。
崇拝までいくと、さらにコワい。
だけど誰かを崇拝している側の心情は、とても充実し幸福感で満たせれていることだろう。